めちゃくちゃブックス

読んだ本の感想やメモなど

「どこから行っても遠い町」川上弘美

読書会をやっていると、変な感想を言ったり、妙な質問をしたりする参加者がチラホラいる。

 「変」とまではいえないが、

 

「何でこれこれはこうなっているんですか?」
「どうしてタイトルはこれこれこうなんですか?」
「この人物は何を考えているんですか?」
「この小説は何の役に立つんですか?」
「この話の意味がわかりません!」

 

こういうストレートすぎる質問を受けると、その場では不愉快になったり、うまく返答できなかったりする。ところが、後々になって、別の本を読んでいる最中に、

 

「仮にあの人がこの小説のこの場面を読んだら、どう反応するのだろうか?」

「何を疑問とするのだろうか?」

「どう説明するべきなのだろうか?」

 

と考える癖がついている。その手の人の視点が内面化されて、あらかじめ感想や質問を想定しているのだ。これは自分にとっては精神的な成長ともいえるが、いちいち答えを考えるのが面倒くさいといえば面倒くさい。

昨日は川上弘美の「どこから行っても遠い町」を8割くらいまで読んだ。読みながら、

「このタイトルの意味は何ですか?」

と質問されたらどう答えるべきか?と、つい考えてしまう。

 

どこから行っても遠い町 (新潮文庫)

どこから行っても遠い町 (新潮文庫)

 

 

えーこれはつまりですね、「どこ」を出発点にしても、そこからその町を目指すと遠い、遠くなってしまう、ということは決まった一定の場所ではない町ということなんですね。つまりまあ、架空の、どこにでもない町、そういう平凡な、かつ非凡な町ですよと。ありそうでなさそうな、現実には存在しない町であると、こういう意味ではないかと、思う次第でございます。

何だか政治家の国会答弁みたいになっている。しかし概ねそういう意味ではないかと、考える次第でございます。

またこの小説は、連作短編集でもあるので、最初のエピソードに登場したバケツで何かを洗っていたおばさんが、第六話くらいになって再登場する。そこは妙に読者としては嬉しいのだ。

 

「どうして同じ人物が再登場すると嬉しく思えるんですか?」

 

えーそれはですね、私が思いますに、まずどのような短編であってもですね、たとえば話の中心になる主人公、つまり主役の主婦がいるとして、その次に第二グループといいますか、主人公に対する夫、子供、不倫相手といったような、重要さにおいて下位のグループに属する人物群がいたとしますと、それよりさらにそのまた下のですね、たとえば道でたまたま会った人、思いがけない言葉をかけてくれそうでいて、大した働きをしなかった焼き芋屋のおじさん、野良犬、近所の子供、不二家のペコちゃん人形、折れたお玉、おみやげのお菓子、などが第三グループ、はたまたその下の第四グループ、といったように階層があるわけです。

その階層の下の方の人びとや物たちはですね、最初のエピソードの段階では端っこにある、重要ではない、いわばほんの添え物でしかありません。けれども現実の世界がそうであるように、それらは端役ではなくて皆それぞれがそれぞれの意識としては世界の中心的な存在であるわけです。これらの人びとや物は決して作者の都合で端っこに寄せられている訳ではなくてですね、何かのタイミングで急に中心近くにひょっと、出てくると。そういう機会があるということが小説の世界を広くする、と同時にですね、この現実の世界の複雑さにも迫っていると、こういう意味ではないかと、このように思う次第であります。

またそれだけ複雑で豊かで、奥行きのある世界を描くためにはですね、本来ならば一人ひとりの人物や物に対して、充分な量と質の描写が必要となる訳ではございますが、いかんせんそこまで細かい描写というものがですね、作者にとっても大変な重労働、読者にとってもたいへん読むのに手間と時間と精神力がかかる訳でございます。ところがですね、ひょこっと再登場する、という形ですと、たいへん楽に、そのタイミングの唐突さも含めましてですね、世界の広さや複雑さ、豊かさを描ける、と同時にコントロールできない、不確実な可能性を孕んだ存在としても同時に描けると。それをたいへんコンパクトに表現できるし読めもするのだという、書き手と読み手の双方に利点がある訳であると、このように考えるのでございます。

そういう点を含めてですね、読んでいる方には快感、気持ちがよい、うまいこと労力をかけずに済ましているという経済的な合理性、そういった様々な要素を含みながら、それらをひっくるめて面白いと感じられるのではないかという、これがわたくしの一つの考えであるところでございます。

そしてまた通常われわれ読者がですね、何やらさほど重要でない人物に関する描写を読むときの心理とは、一体どういうものなのだろうかと考えてみるにですね、ああ何だか無駄なものを読まされてしまったなと、こういう思いが少なからずあるのではないか。一時的な記憶として、その小説を読んでいる間はその記憶を維持していなければいけない、それは義務ではないものの、忘れたとしても罰はないものの、一種の重荷として頭の中に残っている。保留状態にしておいて、後でまた思い返すことになるかもしれないから忘れないでおくぞと、しかし仮に忘れたとしても、さほど恥をかくという訳でもないけれども一応は頭の片隅に置いておきましょうという、中途半端な状態で残している訳です。あたかも中に何が入っているのかを知らされていない、変な荷物を背負いながらマラソンをしているランナーのようにです。

ところが少しも重要ではないと思われていた人物がですね、後になって「実は重大な人物であった!」あるいは「思いがけず再登場!」という展開にはですね、簡単に申し上げますと一定の労力に対して、一種の対価として、思いがけないリターンが発生したとも言える訳です。このような損得勘定が働くことによって、何かこう嬉しい、自分の読んできた情報は無駄ではなかったぞと、むしろ得をしたぞと感じられるのではないだろうか。広く一般に「見事な伏線回収」と賞賛されるような技術も含めてですね、そういった、読者の努力や苦労に対するお得なリターンが生じる感覚、思いがけない贈り物を受け取ったような感覚、これらがきわめてストレートな嬉しさや面白さ、作者への好意や賛辞へと結びつきやすいものである、ということを考え、かつ申し上げる次第でございます。