太宰治の「恥」は、ある女の子が太宰らしき人物(戸田)の小説を読んで、
「自分がモデルにされているに違いない!」
と熱烈に思い込んでしまうという短篇である。
「戸田様。私は、おどろきました。どうして私の正体を捜し出す事が出来たのでしょう。そうです、本当に、私の名前は和子です。そうして教授の娘で、二十三歳です。あざやかに素破抜(すっぱぬ)かれてしまいました。今月の『文学世界』の新作を拝見して、私は呆然としてしまいました。本当に、本当に、小説家というものは油断のならぬものだと思いました。どうして、お知りになったのでしょう。しかも、私の気持まで、すっかり見抜いて、『みだらな空想をするようにさえなりました。』などと辛辣(しんらつ)な一矢を放っているあたり、たしかに貴下の驚異的な進歩だと思いました。私のあの覆面の手紙が、ただちに貴下の製作慾をかき起したという事は、私にとってもよろこばしい事でした。
さらにこの女の子は、当の作家の家に会いに行く。
私がいま逢ってあげなければ、あの人は堕落してしまうかも知れない。あの人は私の行くのを待っているのだ。お逢い致しましょう。私は早速、身仕度をはじめました。菊子さん、長屋の貧乏作家を訪問するのに、ぜいたくな身なりで行けると思って? とても出来ない。或る婦人団体の幹事さんたちが狐(きつね)の襟巻(えりまき)をして、貧民窟の視察に行って問題を起した事があったでしょう? 気を附けなければいけません。小説に依ると戸田さんは、着る着物さえ無くて綿のはみ出たドテラ一枚きりなのです。そうして家の畳は破れて、新聞紙を部屋一ぱいに敷き詰めてその上に坐って居られるのです。そんなにお困りの家へ、私がこないだ新調したピンクのドレスなど着て行ったら、いたずらに戸田さんの御家族を淋(さび)しがらせ、恐縮させるばかりで失礼な事だと思ったのです。私は女学校時代のつぎはぎだらけのスカートに、それからやはり昔スキーの時に着た黄色いジャケツ。此のジャケツは、もうすっかり小さくなって、両腕が肘(ひじ)ちかく迄にょっきり出るのです。袖口(そでぐち)はほころびて、毛糸が垂れさがって、まず申し分のない代物(しろもの)なのです。戸田さんは毎年、秋になると脚気(かっけ)が起って苦しむという事も小説で知っていましたので、私のベッドの毛布を一枚、風呂敷に包んで持って行く事に致しました。毛布で脚をくるんで仕事をなさるように忠告したかったのです。私は、ママにかくれて裏口から、こっそり出ました。菊子さんもご存じでしょうが、私の前歯が一枚だけ義歯で取りはずし出来るので、私は電車の中でそれをそっと取りはずして、わざと醜い顔に作りました。戸田さんは、たしか歯がぼろぼろに欠けている筈ですから、戸田さんに恥をかかせないように、安心させるように、私も歯の悪いところを見せてあげるつもりだったのです。髪もくしゃくしゃに乱して、ずいぶん醜いまずしい女になりました。弱い無智な貧乏人を慰めるのには、たいへんこまかい心使いがなければいけないものです。
今これを読み返してみると、ストーカー的な心理は昔からあるんだなとか、太宰治自身は、読者との関係をある程度は予想して戯画化すらしていたんだなとか、色々と感慨深いものがある。
- 作者: 太宰治,江國香織,角田光代,川上弘美,川上未映子,桐野夏生,松浦理英子,山田詠美
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しかしそのような感想は他に任せるとして、私は「天才バカボン」の中のある話を思い出した。
それはバカボンのママが中心の話で、ママがハーレクイン・ロマンス風の小説に入れあげて、直接その作家に会いに行くという話である。
実際に訪れてみると、美しい文章で美しい恋物語を書く作家は、ゴミ置き場のような所に住んでおり、ママが親切心から部屋を綺麗に掃除してしまうと、環境に反比例して文章が汚くなってしまう、という落ちがつくのであった。おそらく赤塚不二夫のブレーンの誰かが「恥」を意識して作ったのではないだろうか。