めちゃくちゃブックス

読んだ本の感想やメモなど

「村上朝日堂」村上春樹

村上春樹は毎年のようにノーベル文学賞の有力候補となり、新刊が出るたびにニュースになるほどの有名作家である。

しかし正直なところ、私はその小説に関しては今ひとつ面白味がわからない。特に長編は何も取り得がないような主人公が出てきて、ごにょごにょしていてウダウダしていて、何となく格好だけはついていて、何もしないのに激しくもてたりするので、ほとんど虫のいい妄想でも書いているようにしか見えない。

一方でエッセイの類はそうでもなくて、割と好んで読んでいる。世間の同調圧力に屈せずに、淡々と個人としての生活を維持するための信条であるとか、日常生活の中のささやかな喜びや趣味に関する話題が描かれており、読んでいて苦にならない。それどころか、読めと言われればいつまでも読んでいられるほどである。

ユーモアに関して言うと、日本人にありがちな自虐的な告白や、意地の悪い嗤いがほとんどなく、常にスマートで清潔感のある明るさが漂っている(「怒りのあまり、毒づいてわめき散らす村上春樹」という図を想像することすらできない)。

今回はエッセーの中でも、かなり以前から妙に気に入っているものを紹介したい。それは「村上朝日堂」の中の「『豆腐』について」というシリーズの(四)である。

最初に「全て想像」「仮定の話」と念を押してから、次のように話が始まる。

 

まず昼下がりに町を散歩していると、年の頃は三十半ばの色っぽい奥さんが「はっ」と息を飲んで僕の顔を見るのである。「なんだろう」と思っていると、その人のつれていた五つくらいの女の子が僕のところに駆けよってきて「お父さん」なんて言う。よく話を聞いてみると、去年亡くなったその人の御主人が僕にそっくりだったらしいのである。

 

これは何の話かというと、実は「豆腐のいちばんおいしい食べ方とは何か?」という前置きでエッセーが始まっているのである。文庫で二ページ(厳密には挿絵があるので一ページ半くらい)の短い文章だが、やけに面白くて、いつも読んでいてニヤニヤしてしまう。

 

村上朝日堂 (新潮文庫)

村上朝日堂 (新潮文庫)

 

 

小説と違って、なぜかエッセーの方は「虫のいい妄想」でも楽しくスラスラ読めるものなので、完璧なまでに「虫のいい妄想」を描ききっている本作を熱烈に推したい。