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読んだ本の感想やメモなど

「俳優のノート」山崎努

山崎努がリア王を演じるための詳細な役作りに励み、準備、稽古、そして本公演開始から千秋楽に到るまでの日々を書いた日記。

昔から伊丹十三の「『お葬式』日記」「『マルサの女』日記」が好きだったので、どちらの映画にも出演している山崎努によるオマージュとしても読めなくはない(本書に書かれた期間中に、伊丹十三の自殺という事件も起きる)。文章の簡潔さや論理性もどことなく似ている。

となると題名は「『リア王』日記」でも通りそうなものだが、読んでみるとやはり「俳優のノート」がふさわしいと思える内容で、一つの芝居が上演されるまでに主演俳優がどのような過程や困難を経て、準備を続けるものなのか、段階を追ってよく分かる。

 

新装版 俳優のノート (文春文庫)

新装版 俳優のノート (文春文庫)

 

 

台本を読む、キャストが固まる、台詞を覚える、場面ごとの意味や効果を考える、などは一人でできる範囲だが、これに他の俳優が絡むと急に事態が複雑化する。新人もベテランもいる中で、稽古を止めてしまう議論好きの人がいたり、他の仕事の関係で稽古に参加できない人が出てきたり(それがまた功を奏したり)する。

とにかく長期間にわたって多事多難の連続で、読んでいる方もハラハラする。やがて初日を迎えるまでに宣伝活動その他が入ってきて、ギリギリになってもまだ台詞が飛んでしまう、といったハプニングが起きる。

読み物としては、小さな進展と事件の合間に、過去に交友した有名人や現在の知人のエピソードが頻繁に挟まれるので退屈する暇がない。黒澤明、山田太一、ジュディ・デンチ、岸田今日子などなど。

 

役の人物を掘り返すことは、自分の内を掘り返すことでもある。そして、役の人物を見つけ、その人物を生きること。演技を見せるのではなくその人物に滑り込むこと。役を生きることで、自分という始末に終えない化けものの正体を、その一部を発見すること。

効果を狙って安心を得るのではなく、勇気を持って危険な冒険の旅に出て行かなくてはならない。手に入れた獲物はすぐに腐る。習得した表現技術はどんどん捨てていくこと。

 

俳優が役を作るときに犯す間違いは、キャラクターに統一をとろうとすることである。マクベスでも、嫉妬深いオセロでも、その心の動きは、かなり脈絡のないものなのである。人間とはそういうものなのだ。わが身をふり返ればよく分る。

 

今日は台本を開かず「マリネ」の日とする。魚を酢につけておくように、芝居のことを忘れ、何もせずに、役が身体に染み込んで行くのを待つのだ。この「マリネ」も我々の符丁。

 

妹は肉親家族が病室に居ない時に、一人死んだ。どこまでも間の悪い奴だった。付き添いのおばさんの話によると、最期まで病室の入り口に目をやり、家族が来るのを待っている様子だったという。道化的情景だ。誰にも気付かれずに姿を消した道化のイメージと重なる。(略)

実は稽古の途中から、道化に妹のイメージを重ねて演っているのだが、そうだ、リア王は道化に辛く当った方がいいのかもしれない。観客が道化に同情するくらい邪険に扱うのだ。

 

午後四時楽屋入り。各楽屋の入口に色とりどりののれんが掛けられているのに驚く。歌舞伎の楽屋のようだ。のれんのないのはいっけいと自分の楽屋だけ。自分にはどこかアマチュア志向があって、「役者」と名乗ることに抵抗がある。「俳優」くらいが丁度いい。「役者」は、能、狂言、歌舞伎のような古典芸能の人に似合うと思う。

 

成功したいか?したい。ならば失敗も覚悟しろ。大成功したければ大失敗も覚悟しろ。

リアは居るか?居る。よし、明日はリアに身体を貸すのだ。

とにかく、稽古は終った。

 

映画やテレビの現場で芝居の話ばかりしている新劇俳優たちがよくいる。(略)こういう連中に限って、テレビの脚本を読み解くことも出来ず、とんちんかんな演技をする。いや、演技ではない。演技もどきだ。映画やテレビの仕事は生活費を稼ぐためで、不本意な時間、ということなのだろう。

撮影現場で芝居の話などやめるがいい。目の前にいる人、今起きている事に興味を持つことだ。面白いことがたくさんあるじゃないか。日常に背を向けてはいけない。彼らはカメラの前で精彩がない。疲れきっている。不本意な時間が苦痛なのだ。

 

黒澤さんは言った。映画作りはね、自動販売機にコインを入れてジュースを買うようなわけには行かないんだよ、目の前にある仕事を一つ一つ根気よくやって行くと、いつの間にか出来上っているんだ。自分はこの言葉を肝に銘じている。

 

あれほど心していたのに、また持病の癇癪を起してしまった。情けない。

きっかけは言うまでもなく下らないことだ。共演者の一人が自分の右耳に口を押しつけるようにしてせりふを怒鳴った(これは危険なことで鼓膜が破れることがある。映画ではそういう場合、耳栓をして撮影する)。しばらく耳が聞えなくなった。袖に入って注意を与えた。ところが次の場で、今度は左耳に同じことをやった。ここでぷっつん。切れた。

Ⅱ幕幕開き前の袖は出の直前まで大混乱。相手に悪気はないのだが、全く反省していない。変な奴だ。

 

文庫の裏表紙にある「清冽なプロフェッショナル魂が万人の胸を打つ、日記文学の傑作。」という煽り文句に偽りはない。

読み終えてから最初の頁の日付を見てみると、

一九九七年 七月十四日 月曜日

とあって、ちょうど20年前の今月の今頃から始まるのであった。様々な本を読む中で、たまたまこういう偶然があると嬉しくなる。