めちゃくちゃブックス

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「流れる」幸田文

 

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四十すぎの未亡人の主人公が、芸者置屋の女中となって働くという短めの長編小説。

冒頭からこれでもかというくらい、常に何もかもが二重性を帯びて現れてくる。

人は皆、口で言うことと本音を使い分けるし、声色も使い分けるし、猫や子供まで腹黒く、騙し騙されながら生きている。廊下に金が落ちているだけで、主人公はそれを何かのテストだと勘繰らざるを得ず、裏を読んで勘繰った姿勢が評価されて二重の国の住人として認められるような世界である。主人公の名前さえ「梨花さん」「春さん」とが併用される。

いわば「二重の国のアリス」とでもいった小説である。素人が玄人の世界に慣れるまでのスリル、生活の中でのサスペンスが山盛りで、少し休ませてくれと言いたくなるくらい絶え間なく続く。年末年始でちょっと一息つくものの、そのうちに芸者置屋の税金未払い問題や訴訟問題が差し迫ってきて、クライマックスへとなだれ込む。

 

流れる (新潮文庫)

流れる (新潮文庫)

 

 

表紙はいかにも「古きよき日本情緒を描いてますよ」という佇まいだが、稀にみるサスペンス小説という印象を受けた。何よりも文章の自由闊達さに酔わされた。このところ翻訳文の日本語を読んでばかりだったので、生き返るような心地がする。たとえば雪が降ってくる場面。

 

「じゃお願いします」と行きかけると、「あ、雪だ。やっぱり雪だった。初雪でございますよ」と若く弾んだ声を出す。
「あら、ほんとに。」
「十一月から初雪じゃあちっと早すぎますよ。ことしは雪年だって親方がさっきそう云ってたんですが、えらいもんだやっぱり経験者にはかないませんね。あの、お宿がございましたらお客様をお送りいたしますんでしょうか。それならご返辞に伺いますとき、わたくし車持って参りましょうか。」
「さあ、あたし伺ってきませんでしたが。それにお時間の都合もあるでしょうし。」
「それもそうでございますね。ではとにかくご返辞にだけ伺います。」
 透かすと、雪は大気を押しわけるようにゆっくりと、黒く、白く、まばらに降りて来る。天から来るものはどうしてこう清々しいのだろう。雨も雹もみんな清々しいが、雪のこのおおらかな清さはどうだろう。そして又、なぜ車屋の若い衆のいいことばづかいはこうも懐かしいものなんだろう。梨花は雪にあわせてゆっくりと帰り途を行きながら、久しぶりで人に会ったような気がしていた。誰にということもないけれど楽しい人に会ったような気がしていた。

 

ラストもいい味だし、犬や猫の使い方も面白い。