古い小説を読んでいると、今と価値観が違いすぎるために、うまく受け止めかねる珍妙な場面や文章に出くわすことがあります。そのような珍妙さをあざ笑うような態度には、どことなく育ちの悪さのようなものが見え隠れするので俺としては避けたいのです。
しかし、「正義と微笑」の次のような場面に遭遇すると、上記の心構えも揺らいでしまいます。
練習が終ってから、れいに依ってすぐ近くの桃の湯に、みんなで、からだを洗いに行った。脱衣場で、梶が突然、卑猥な事を言った。しかも、僕の肉体に就いて言ったのである。それは、どうしても書きたくない言葉だ。僕は、まっぱだかのままで、梶の前に立った。
「君は、スポーツマンか?」と僕が言った。
誰かが、よせよせと言った。
梶は脱ぎかけたシャツをまた着直して、
「やる気か、おい。」と顎をしゃっくて、白い歯を出して笑った。
その顔を、ぴしゃんと殴ってやった。
「スポーツマンだったら、恥ずかしく思え!」と言ってやった。
梶は、どんと床板を蹴って、
「チキショッ!」と言って泣き出した。
「君は、スポーツマンか?」とはまるで加山雄三のような雄々しい言葉です。正直な話、俺も使ってみたい。そして「チキショッ!」の部分は田中邦衛の声と顔で真似したくなるような趣があります。
それにしても太宰治の凄いところは、とろとろした軟体動物のような文章の中に唐突な破調が訪れる、その瞬間ではないでしょうか。
僕は、学校からの帰途、あっさり退学を決意した。家を飛び出して、映画俳優になって自活しようと思った。兄さんはいつか、進には俳優の天分があるようだね、と言った事がある。それをハッキリ思い出したのである。
けれども、晩ごはんの時、つぎのような有様で、なんという事もなかった。
「学校がいやなんだ。とても、だめなんだ。自活したいなあ」
「学校っていやなところさ。だけど、いやだいやだと思いながら通うところに、学生生活の尊さがあるんじゃないのかね。パラドックスみたいだけど、学校は憎まれるための存在なんだ。僕だって、学校は大きらいなんだけど、でも、中学校だけでよそうとは思わなかったがなあ。」
「そうですね。」
ひとたまりも無かったのである。ああ、人生は単調だ!
人生は単調かも知れませんが、このやりとりの最後の「そうですね。」という絶妙のタイミング、これは単調さとは無縁です。俺はここでカクッとなりました。「笑っていいとも!」では決して味わうことのできない、「そうですね」史上に残る名「そうですね」がここにはあります。
注:「正義と微笑」は新潮文庫「パンドラの匣」に収録されている青春小説。