最近は、昔読んだ本をただダラダラと読み返してばかりいる(それにしても昔読んで面白かった本をダラダラ読み返すこと以上に面白いことがあるだろうか)。
近年はちくま文庫や新潮文庫でも出ているけれども、内田百閒だけはどうしても旧かな表記でないと落ちつかない。
再読して気づいたのは、食べ物の随筆の中に煙草関係の随筆も平然と混ざっているということ。どちらも御馳走だから別にいいということだろうか。
それから、文庫のカバーに「ご存知食いしん坊百閒先生」などと書いてあるが「食いしん坊」などという可愛らしい表現はまったく似合わない。正岡子規とどっこいどっこいの食欲である。
それから和製英語が定着するまでには多少の時間がかかったらしいということ。例を挙げるとトメト、チース、ピスケットなど。
一番愉快なのは、料亭で客の食べるペースを無視してどんどん料理が出てくるエピソード。
かうしてお客になつてここへ座つた以上、女中や仲居はこちらの、お客の方の味方だらうと思ふけれどさうではないのか知ら。こちらの側に立つてくれるなら、まださつきのお皿に手がついてゐない、お吸ひ物の蓋もその侭である。次の順序はもう少し控へた方がいいでせうと、なぜ板前にさう云はないのだらう。
それがどうもさうではない様で、彼女等は板前の手先であり、廻し者であって、お客の方のお膳の上などは眼中にないかも知れない。
その上「さめるといけませんから」「すぐに召し上がつてくれ」などと言われて、ついに怒りが爆発する。
癪だから冷めない内になんか食べてやらない。だれが食べるものか。後でゆつくり冷めてから食べる。それでまづかつたら、ここの料理はまづいと云ふことにするからいい。それよりもお澗を狂はせない様に頼むよ。
これだけ言っても酒を飲んでいるうちに「何となく片づいて」しまう。その上とどめに、
うまかつたかまづかつたか、さう云ふ事は何も記憶に残つてゐない。
と〆る。こういう人に私はなりたい。