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「僕はどうやってバカになったか」マルタン・パージュ

 

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たまたま新宿の書店で見かけて、すごいタイトルに惹かれて買って、すぐ読了。これはなかなかの拾い物だった。

 

僕はどうやってバカになったか

僕はどうやってバカになったか

 

 

<知性を葬り去ることに情熱を燃やす悩める若者の奇妙な冒険>

<フランス若手作家のポップで愉快なデビュー作>

というのが出版社の用意した内容紹介だが、「知性」に対してもその反対の「バカ」に対してもユーモラスかつ皮肉で一定の距離を置いていて、もろに自分好みの小説だった。

医者との会話は初期のウディ・アレンを思わせるし、発光する友達のエピソードなどは昔のアーヴィングや村上春樹のように可笑しい。どのページにも一定の可笑しさがあって、それをキープできているところが素晴らしい。

 

アントワーヌは、いつも犬みたいな年の取り方をしていると感じていた。七歳のとき、四十九歳の男みたいにやつれていたし、十一歳で七十七歳の老人のように幻滅していた。二十五歳の今、もう少し気楽な生活を送りたいと思い、脳みそを愚かさの衣で包んで葬る決心をした。

 

彼が住む社会では世論が、はい、いいえ、意見なしの中から選んだ回答に押し込まれるのだが、アントワーヌはけっしてどれにも丸をつけたくなかった。賛成か反対かという択一は、複雑な問題に加えられる耐え難い規制だった。

 

彼の趣味は何物をも排除せず、雑多だったので、嫌いなものを共有することで成り立つ派閥から締め出されていた。

 

私たちは生きることを選んだのではありません。言葉や、国、時代、好みも、私たちの生も、自分で選んだのではありません。唯一の自由、それは死です。自由、それは死ぬことなのです。

 

知性には、なんらかの高貴なものが備わっていると考える者は、実はそれが呪いでしかないと気づくだけの知性を持ち合わせていない。

 

確信を持つことは、この世でもっとも強烈な快感である。金、セックス、権力を合わせたものより、まだはるかに強烈だ。確信を持つための代価は、本物の知性の放棄である。

 

そう、『ドタバタおじさん』。話の中で、おじさんはいつも不幸に見舞われる。出かけようとすると雨が降る、あちこちで頭をぶつける、オーブンの中にケーキを入れっぱなしにして忘れる、持ち物を全部なくしてしまう、いつもバスに乗り遅れる……。なぜか?ドタバタおじさんだからだ!エドガー、僕は今、ドタバタおじさんになっている気がするんだ。ドタバタおじさん、それは僕なんだ!

 

この世で恋愛と誘惑は、一番無意識のうちに起こることであると同時に、もっとも合理的でもあるのよ。恋に落ちるのに理由なんてないと言っておけば、実際にはあまりご立派ではない理由を白状しなくても済むでしょう。

 

社会に完璧に同化している人に、季節はひとつしか存在しない。それは永遠に続く夏。(略)アントワーヌは、これまでの二十五年間を雨がよく降る秋の中で暮してきた。これからは冬でも、秋でも、彼の意識はずっと夏に支配されるのだ。

 

もう一つ、リンが過剰に調合された瓶入りベビーフードを食べた結果、アスレーは暗いところで発光するようになった。とってもきれいだった。二人が夜道を散歩すると、アントワーヌの横を行くアスは巨大なホタルのようで、街灯のない細い道を照らしてくれたのである。


終りの方でジェローム・K・ジェロームの「ボートの三人男」がちょっと出てくる。あの名作はフランスで未だに読まれているかと思うとちょっと嬉しい。