この小説は連作短編集で、7年前に買って半分ほど読んでそのままだったもの。それ以前に雑誌に載った段階で読んでいる短編もあるので、かれこれ15年くらいかけて1冊を読んだという、ちょっと変わった経験をした。
以前は退屈に感じられた箇所も、いま読むとやけに愉快だったり深く胸に沁みたりもする。
「静かな生活」◎
小説家のK(ほぼ大江健三郎)が精神的なピンチを乗り越えるために外国に滞在してしまう。しかも夫婦揃ってのことなので、残された長男(イーヨー、知的障害のある25歳)、長女(マーちゃん、大学生、この小説の語り手)、次男(オーちゃん、浪人生)の三人はけっこう大変だよという話。
瓶に水を詰めて持ってくる男だとか、マーちゃんの自己分析や語り口だとか、その辺が面白くてまとまりがあっていい。
どういう話だったっけと思いながら読み、思い出しながら読み進み、最後まで行って「やっぱりこれは以前に読んだ」と確信した。
「この惑星の棄て子」○
イーヨーが作曲した曲のタイトルを「すてご」としたので、周囲が心配するという話。
伯父さんの葬式があって、四国に行くことになる。そこで「太陽の光を浴びるとクシャミが出るのよね」なんて会話をする辺りのノンビリした空気がいい。近世、現代、未来の人間がいるので、近世のお婆さんと未来のイーヨーは二人で話していてください、現代のものは現代同士で、なんていう所のユーモ
アもいい。
「すてご」の件は最後の1ページで明らかになる。読後感がよいので○。これは最初の方の水道工事の辺りは覚えていたが、途中からは読んでいなかったらしい。
「案内人(ストーカー)」△
タルコフスキーの映画「ストーカー」をビデオで見てあれこれ話をする、という短い作品。
オーちゃん、マーちゃん、東欧文学に詳しい音楽の先生夫妻などの解釈が色々とあって、最後に電車の中でちょっとした事件があってお終い。これは雑誌「スイッチ」に掲載された時に読んだものの、ほとんど意味がわからなかった。それもその筈で、前後関係や人物紹介なしで読んで理解できる人間はいないだろう。
そもそもこの連作は発表する雑誌が「群像」「文学界」「スイッチ」とバラバラで、特に断り書きもなかったように思う。連載小説の半端な回を1回分だけ読むようなものだ。
しかし全体の流れの中でこれを読むと、短めの休憩的な回と言えるし、登場人物があれこれお喋りしたり議論したりという小説が好きなので○、分量がちょっと短すぎるので差し引いて△といったところ。
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「自動人形の悪夢」○
作中人物それぞれの自意識の問題をめぐる話。
有名な作家の娘であることの葛藤や、当の作家Kが若い頃に思いあがっていてちょっとおかしかった時期の話など。自己批評として興味深い。
若い頃の大江健三郎なら、いくら思い上がっても不自然ではないし、むしろ「なんでもない人」として自分を捉えることの方が難しそうに思う。
イーヨーがバスの中で「落ちこぼれ」と言われてしまうエピソードが導入で、ビラ配りのビラの裏に書いた数学の計算が外国で読まれてしまう所など面白い。
「小説の悲しみ」◎
これは冒頭の、マーちゃんがエンデの小説を読んだ際のエピソードがいい。一人の少女が世界を救うなんて実際にはありえない、という国語の先生に対して作家Kは、むしろそういうことはしばしばあったのだ、と言う。
後半のセリーヌの読解の部分もいい。
「家としての日記」◎
イーヨーが水泳に通うようになって、そこで知り合った青年が実は、という結構怖い話。最初の短編と対になっているような面があって、作家Kの「ピンチ」も一応収まり、オーちゃんの受験もひと区切りついて全体の締めくくりになる。そして最後の最後でこの連作全体のタイトルについて触れられる。ここまで来るとほとんど独立した短編としては読めない。
たまにこういう地味な小説を読むというのは、精神に重しが乗るような落ちつきをもたらしてくれるようでいいなと思った。
仮名で出てくる人物も、ああこれは武満徹がモデルなのかなとか、絶対に水野晴郎だなとか、すぐわかるので以前よりはかなり楽に読めた。
この小説で「女性の語り手」という形を試みたことが、後の作品での「両性具有の語り手」を生むきっかけになったとのこと。
*本作は伊丹十三によって映画化されている。