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「正統とは何か」G.K.チェスタトン

タイトルの「正統」とは、キリスト教的な世界観のことを指す。冒頭にも結論部分にも解説にもそう書いてある。いかにして自分はキリスト教を受け入れるようになったか、という精神の発展の記録である。

と書くとお堅い感じがするが、たとえ話や逆説的警句がこれでもか、これでもかと繰り出され、本筋をたびたび見失うほどに鮮烈な印象を残す。

 

正統とは何か

正統とは何か

  • 作者: ギルバート・キースチェスタトン,Gilbert Keith Chesterton,安西徹雄
  • 出版社/メーカー: 春秋社
  • 発売日: 2009/02
  • メディア: 単行本
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実際、各章をうまく要約できる自信が自分にはない。昔、国語の授業でやったように各章ごと、各段落ごとに要点を書き出してみて初めて全体の論理の流れが把握できるのではないだろうか。しかし部分的には感心を通り越して感動すら覚える箇所が多々ある。

以下に各章から少しずつ抜粋しておく。

 

 

狂人とは理性を失った人ではない。狂人とは理性以外のあらゆる物を失った人である。

 

 

孤立した傲慢な思考は白痴に終わる。柔かい心を持とうとせぬ者は、ついには柔かい脳を持つことに至りつくのである。

 

 

自然界の繰り返しは、単なる反復とはちがうのではあるまいか。実はアンコールではあるまいか。天は、卵を産んだ鳥にアンコールしているのだ。人間の子は人間の子をはらみ、人間の子を生む。魚や、コウモリや、怪獣の子を生みはしない。

 

 

人間は、世界を変えねばならぬと思うくらい世界を憎みながら、世界は変えうる値打ちがあると思うくらい世界を愛することができるかどうか。人間は世界の巨大な善を見上げながら、しかもただ黙って服従しているとは感じずにいられるか。

 

 

われわれの住むこの世界で本当に具合の悪いところは何か。それは、この世界が非合理の世界だということではない。合理的な世界であるということさえもない。いちばん具合が悪いのは、この世界がほとんど完全に合理的でありながら、しかも完全に合理的ではないということだ。人生は非論理の塊ではない。しかし論理家の足元をさらう程度には非論理的である。(略)リンゴでもミカンでも、たしかに丸いと言っていいほど丸いのに、実はまるきり丸くはない。

 

 

文明を弁護するということは、それが複雑であるということを弁護することにほかならない。あまりにも多くのことがありすぎる。だが、証明があまりにも多くて錯綜しているというまさにそのことが、本来なら返答を反論の余地のないものとするはずなのに、実際には返答を不可能にしてしまうのだ。こういうわけで、複雑な確信というものにはいつでも一種の無力感がつきまとう。

 

 

正統とは正気であった。そして正気であることは、狂気であることよりもはるかにドラマチックなものである。正統は、いわば荒れ狂って失踪する馬を御す人の平衡だったのだ。ある時はこちらに、ある時はあちらに、大きく身をこごめ、大きく身を揺らせているがごとくに見えながら、実はその姿勢はことごとく、彫像にも似た優美さと、数学にも似た正確さを失わない。

 

 

荘重さは人間から自然に流れ出してくるが、笑いは一つの飛躍にほかならない。重々しくするのはやさしい。が、軽々しくするのはむずかしい。

 

 

仏教徒は異常な集中力で内部を見つめている。キリスト教徒は強烈な集中力で外部をにらみつけている。

 

 

たとえば神智論者は、輪廻転生というような、一見いかにも魅力的な観念を説く。しかしその論理的帰結をよくよくたどれば、結局、精神的傲慢とカースト制度の残酷さに至るだけである。というのも、もし人が前世の罪業の結果乞食に生まれつくものならば、誰しも乞食を軽蔑することになるだろうからである。これにたいしてキリスト教は、一見いかにも魅力のない観念を説く。
たとえば原罪という観念だ。ところがその帰結をよくよくたどるなら、ペイソスと同胞意識と、そして哄笑と憐れみに到りつく。なぜなら原罪があってはじめてわれわれは、乞食を憐れむと同時に王侯を盲信しない信念を得るからだ。

 

 

平常平凡な人間は、いつでも神々を疑う自由を残してきた。しかし、今日の不可知論者とちがって、同時に神々を信ずる自由も残してきた。大事なのは真実であって、論理の首尾一貫性は二の次だったのである。かりに真実が二つ存在し、お互いに矛盾するように思えた場合でも、矛盾もひっくるめて二つの真実をそのまま受け入れてきたのである。人間には目が二つある。二つの目で見る時はじめて物が立体的に見える。それと同じことで、精神的にも、平常人の視覚は立体的なのだ。(略)こうして彼は、運命というものがあると信じながら、同時に自由意志というものもあることを信じてきたのである。こうして彼は、子供は天使であると信じながら、同時に、子供は大人の言うことを聞かねばならぬと信じてきたのである。