「エンサイクロペディア国の恋 ユーモア・スケッチ抱腹篇」は翻訳家の浅倉久志による編集と翻訳で、もう一冊の「 忘れられたバッハ ユーモア・スケッチ絶倒篇」と対になる文庫本である。
と言っても、なかなかこれだけで済ませるのでは説明不足になってしまうので、もう少し親切に解説してみよう(あれこれ注釈がうるさいと思う人は三十行ほど飛ばして下さい)。
エンサイクロペディア国の恋 (ハヤカワ文庫NV―ユーモア・スケッチ)
- 作者: ロバートベンチリー,コーリイフォード,アートバックウォルド,浅倉久志
- 出版社/メーカー: 早川書房
- 発売日: 1991/11
- メディア: 文庫
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浅倉久志は、主にSF小説を訳した名翻訳家として知られている。
ディックやヴォネガットやラファティといった作家の代表作や、古いものだと「スラン」「宇宙船ビーグル号」といった名作の翻訳をした人で、今でもその訳がそのまま読み継がれている。
アンドロイドは電気羊の夢を見るか? (ハヤカワ文庫 SF (229))
- 作者: フィリップ・K・ディック,カバーデザイン:土井宏明(ポジトロン),浅倉久志
- 出版社/メーカー: 早川書房
- 発売日: 1977/03/01
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- 作者: カート・ヴォネガット・ジュニア,和田誠,浅倉久志
- 出版社/メーカー: 早川書房
- 発売日: 2009/02/25
- メディア: 文庫
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この人が「ユーモア・スケッチ」と命名したある種の作品群を「ミステリ・マガジン」に不定期に訳して発表していたのである。
「ユーモア・スケッチ」という言葉に関しては、はてなキーワードの説明が便利なので、そのまま引用する。
かつての、アメリカのジャズ・エイジの「ニューヨーカー」の全盛期などに、特に流行した、エッセイや短編小説などで、アメリカ伝統の「ほら話」(トール・テール)的な人を食ったユーモア、発想を基点とし、「生真面目で洗練された文体」で、物語がナンセンスに暴走するもの。
あきらかに、前提が間違っているのに、作者がそれに気づかないふりをして、物語が進行していくもの。
「物語でない」事物を無理やり物語仕立てにするもの。
ナンセンスなハウツー物。などがある。
戦前の「新青年」などにも、盛んに翻訳された。
翻訳家の浅倉久志が、日本で独自に命名した名前で、浅倉は長期に渡りこの種の作品を「ミステリマガジン」に不定期に翻訳、連載し、後に単行本にまとめられた。
こうした作品をまとめたアンソロジーが「ユーモア・スケッチ傑作展」で、3巻まで出ていた分を再編集して、文庫版二冊に改編したものが今回紹介する「抱腹篇」および「絶倒篇」になる。
その後「すべてはイヴからはじまった」という続編的な性格の単行本も出ているのだが、こちらは文庫化されていない。
以上のいきさつが多少ややこしい上に、どの本も現在は絶版で電子書籍化されそうな気配もない。
しかし好きな人には喜ばれる筈の内容なので、このまま忘れ去られてしまうのも惜しい。早川書房は無理でも、ちくま文庫か河出文庫あたりから再刊されないかなと長年思っているが、昨今ますますその可能性が減っているような気がする。
勿論、収録作のどれもこれもが大傑作という訳ではないのだが、内容に踏み込んで紹介しているブログがほとんど見当たらないので、いくつか紹介してみたい。
全25作中、最も作品数が多いのはロバート・ベンチリーで、この人はユーモア作家であるだけでなく、映画の脚本(「海外特派員」「奥様は魔女」など)も書いて、さらには出演もしていたという。
本書の収録作品のタイトルを並べてみると「橋の不思議」「博物館にて」「わが大学教育」「決算報告」「エンサイクロペディア国の恋」「パリのアメリカ人」「シェルブールの雨」などである。
ただし説明すると野暮になるような種類の作品が多いので、例を挙げづらい。軽い調子のエッセーのように始まる「博物館にて」の冒頭なら、その雰囲気を分かってもらえるかもしれない。
秋が近づくのといっしょに、大きな危険が一つやってくる。さわやかな気候につい誘われて、だれもがかねてからの懸案をかたづけようと、にわかに張りきりだすのだ。これがわれわれのように子を持つ父親になると、ふだんあんまり子供たちにかまってやれなかった罪ほろぼしに、どこか面白くてためになる場所へ連れていってやろうと、殊勝な気持ちにかられる。父親であるよりも友だちであるべきだ、と考えるのはまだ序の口。(略)
そこで忠告するが、これはたんなる秋季熱の徴候ですぐにさめるから、うっかり調子に乗らないことである。子供たちの教育は、子供たちにまかせておけばよろしい。第一、あなたが人になにかを教える柄じゃないのは、ちょっと考えてもわかるじゃないですか。それと、くれぐれも子供連れで自然博物館などへ行くもんじゃない。
なぜこういう忠告をするかというと、自分が行って酷い目にあったからだという流れになるのだが、自分の経験をあたかも「あなた」がこれから経験するかのように書いている。
「このインディアン、どこに住んでたの、パパ?」ハーバートがきく。
「えーと、マサチューセッツの近くさ」あなたは説明する。「それでピルグリムたちと戦ったんだよ」
「ここにはアリゾナに住んでいたと書いてあるよ」アーサーがいう。(この子に字を教えたのはだれだ?)
「うん、アリゾナにもいただろうな」あなたは苦しい。「あっちこっちに住んでいたからね」
「パパ、これはなに?」
「これか?これはまさかりの頭さ。これに柄をつけて、まさかりにしたんだ」
「ここには、火をおこす火打ち石だって書いてあるよ」
「火打ち石だって?ふうん、へんなかっこうの火打ち石だな。きっと、まさかりの頭にも使ったはずだよ」
「パパ、こっちのこれはなんに使うもの?」
「おまえ、そんなに字がよく読めるんなら、なにもパパに聞かなくたって、自分で読んだらどうだ?ハーバートはどこへいった?」
ハーバートは、エトルリアの壺の小箱を横にどかせて、そのうしろのケースに入ったボイオティアの馬の像にさわろうとしている。
「おい、ハーバート、その箱を押しちゃだめだ!壺が割れてもいいのか?」
「うん」ハーバートは簡潔に答える。
最後の「簡潔に答える。」という訳文に何とも絶妙の間があって楽しい。
この例もそうだが、小説のようなエッセーのような、どちらでもないような、日本語でいう漫文のような性質の文章である。
さらに、その範疇も越えて会話文だけで成立しているものもある。ほとんど戯曲に近くなってくるが、(かっこ)の中に本音を書く類の技があったりするので、厳密には戯曲とも異なるようだ。
アート・バックウォルドとハーブ・ケインの「珍客到来」の冒頭はこういう調子である。
バックウォルド やあ、ハーブ、ひさしぶりだな!会えてうれしいよ! (どうも悪い予感がする。やっこさん、きっとリドや、マクシムや、トゥール・ダルジャンへ連れていけといいだすぞ)
ケイン アルテュール、モナミ、モンシェール、モンヴィユー!さすがにパリっとしてるじゃないか!(やっこさん、パリ生活十二年で、ちったあ新しい店を開拓したしたのかな。リドや、マクシムや、トゥール・ダルジャンのほかに)
バックウォルド どうだ、サンフランシスコのきみのコラム、依然好調かい? (さっさと話をすませちゃおう。どうせこの男がおれに会いにくるときは、ネタ探しか、有名人に紹介しろっていう注文なんだから)
ケイン まあね。おかげでなんとかつづいているよ。(ちぇっ、すぐに商売の話。おれがここへきたお目当てはフランス女だってことが、わからないのかねえ)
この作品には珍しくきちんとした落ちらしい落ちがあるが、ないものも少なくない。それどころか、ノンフィクション風にグルーチョ・マルクスの発言を並べたレオ・ロステンの「グルーチョ」のような文章もある。
グルーチョ プロレスの試合はたいてい八百長だというのは、本当ですか?
プロレスラー いや、悪質なデマだ!
グルーチョ 最近あなたは何人ぐらいの悪質なデマと試合しましたか?
総じて要約をし難い作品が多いのだが、もう少し頑張って次回は「忘れられたバッハ ユーモア・スケッチ絶倒篇」の収録作をいくつか紹介してみたい。